檀特山 小松寺

TEL:0470-44-2502(午前9:00〜午後4:00)

小松寺の七不思議

千有余年ものあいだ語り継がれる不思議な伝説
晴天の雨
毎年2月15日は、どんなに良く晴れた日であっても、小松寺がある地区では、必ずひとときの雨が降るといわれています。小松寺は、養老2年(718年)に創建されましたが、その後、火災に見舞われてしまい、しばらく廃墟のままとなっていました。そして、延喜20年(920年)に、国司安房守住吉朝臣小松民部正壽(こくし あわのかみ すみよしのあそん こまつみんぶまさかず)によって再建されました。翌年の延喜21年(921年)2月15日、小松寺が立派に再建されたお祝いに、慶賀の式典が盛大に行われました。安房守の嫡男〔あととり・長男〕である千代若丸(ちよわかまる)も、従臣乙王(じゅうしんおとおう)を従えて式典に参加され、慶賀の稚児舞〔十三歳未満の子供の舞〕を奉納いたしました。すると、突然殿堂が激しく揺れ、ひとつの怪物が現れたのです。千代若丸を引っつかむと、天空高く舞い上がり、遥か遠く北方の地に去ってしまいました。安房守の家臣、五十嵐左衛門という者が「これは伊予ヶ岳の天狗の仕業に違いない!」と素早く馬を飛ばして伊予ヶ岳に至ります。しかし、ここに空しく千代若丸の死体を発見しました。乙王は千代若丸の死を嘆き、大きな悲しみと自らの責任を痛感するあまり、小松寺山の東北にある滝に身を投げ後を追ったのでした。「晴天の雨」にはこのような悲しい伝説があり、2月15日の雨は、千代若丸と乙王を偲ぶ涙雨ではないかといわれています。小松地区の人々は、昭和の初期頃まで2月15日は仕事を休め、ごちそうを作りお参りをしたということです。千代若丸の父君安房守は二人の死を痛く悲しみ、千代若丸のなきがらをそこに埋葬すると、伊予ヶ岳の麓にあるお寺を立派に建て直しました。寺院には、法華経の書千巻と釈迦・弥勒(みろく)・薬師・虚空蔵(こくうぞう)・不動の五尊の仏像を納めて「二人の御霊安かれ」と祈りました。その後、このお寺の名も「経栄山 正寿院 住吉寺(きょうえいざん しょうじゅいん じゅうきちじ)」と改称されました。当時の仏像三体は、現在も正寿院の本堂に安置されており、境内には‘千代若丸の経塚’があります。
土中の鐘
その昔、小松寺の境内には信者の突き鳴らす鐘があり、人々から親しまれ大切にされておりました。ある日、大きな山津波がおきて、その鐘が押し流されてしまいました。山門の仁王尊が必死になって掴んだものの、自然の力に抗しきれず、片腕とともに川に流れ落ちてしまったのです。鐘は下流へと流れ流され、瀬戸川の深い土中に埋まってしまいました。その後、大雨が降り川の水があふれると、瀬戸川の淵から『小松恋しや、じゃがらがん』と悲しそうな鐘の音が聞こえてきたということです。今でも、その辺りの淵を「鐘ヶ淵」と呼んでいます。
暗夜の読経
真夜中に、小松寺の本堂の床下から読経の声が聞こえる日があるといわれています。小松寺の前には小川が流れており、水が流れる音ではないかともいわれています。しかし、真夜中に聞こえてくるその音は、不思議と読経の声に聞こえるのだそうです。その小川の流れる参道には、僧が厳しい修行をおこなったといわれる洞窟跡が現在も残っています。
半葉の樒(しきみ)
松寺を創建された役小角(えんのおづぬ)が本堂で行をする時、樒の葉を半分にして仏様にお供えしていました。すると、いつしか境内の樒の葉は、新しい芽が出ても半分の葉にしか成長しなかったといわれています。その樒の木は、お寺が火災に見舞われた時に燃えてしまったということです。現在、その場所と思われる所には、ふいりの樒の木が植えられています。
天狗の飛違い
小松寺の前方にある山頂には天狗が住んでいて、大きな杉や松のある山中を、すさまじい音をたてて飛びかったり、また、音もなくひらりひらりと身をかわしたりするといわれていました。そして、この寺山の木を無断で切ると、木の切り口から血が流れ出ると伝えられてきました。また、盗伐に入ると木は必ず盗伐者の方に倒れ、大怪我をして山から出られなくなるともいわれ、人々から恐ろしがられていました。さて、その天狗は今もこの山に住んでいるのでしょうか。
七色の淵
小松寺の前には小川が流れています。現在のように広い道路はなく、道とは名ばかりの狭い道にはたくさんの樹木が生い茂り、淵にかかっていたことでしょう。日の光もまばらな参道を歩く人は、人里離れた山間に入るとほっと一息つきながら、淵のほとりで一休みをします。そのような時、小川の水の色がそれはそれは美しく、七色の変化をみせたと伝えられています。
乙王が滝
千代若丸の死を悲しんで、従臣乙王が身を投じたといわれている滝です。古老の話によると、この滝は見るも恐ろしいほどの水の流れの激しい滝だったそうです。「雨天の雨」には悲しくも痛ましい伝説がありますが、乙王の霊により、その後、天狗は悪事をすることもなく、山ではさわさわと天狗が飛びかう音のみが聞こえるようになったといわれています。そして、人々はこの滝を「乙王が滝」と呼ぶようになったそうです。平成9年4月には、小松寺山の頂上にて‘乙王の墓’が発見されました。この墓石には「南無薬師如来乙王墓」と記され、「寛政二年五月吉日 施主安藤幾右衛門」と明記されています。現在は、小松寺山に登山口が作られ、墓の安置室が完成しており、乙王の墓はここに永久に保存されることになりました。その場所からは、前方に館山湾を望み、後方は千倉町の海や民家を見下ろすことができます。また、小松寺の境内にあります梵鐘は、千代若丸の菩提をとむらうために、応安7年(1374年)に寄進されたもので「為千代若丸(ちよわかまるのために)」と記されています。


伝説に登場する「千代若丸」や「乙王」は実在した人物であり、小松寺にはその証である‘千代若丸の為に’と記された梵鐘や、乙王の墓が存在します。天狗による悪行や、なぜ幼い千代若丸が連れ去られてしまったのかなど、現代では想像することの難しい多くの謎が残る伝説です。天狗というと怖いイメージを描いてしまいがちですが、山神として人々から崇められている天狗もいます。「晴天の雨」の出来事があったことで、ときのご住職は天狗の悪行を鎮めるため小松寺山に「飯綱権現」を勧請し法要をおこないました。小松寺には「天狗の間」があり、現在も香が焚かれています。その後、小松寺山に棲む天狗により寺や周囲の山々は守られ、悪行をする天狗は近づかなくなったといわれています。千代若丸の死を嘆き、自らの責任を痛感した乙王の霊は、子ども達が健康でたくましく育つよう強い力を与えてくれるといいます。いつしか小松寺は、子どもの健やかな成長を願う参詣者がたくさん訪れるお寺となりました。
    
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